VWクイックヒストリー

ここではストーリー風にワーゲンのこれまでの歩みを
まとめてみたいと思います。

 


1920年代後期、世界は大恐慌に見舞われていました。中でもドイツでは
第一次世界大戦敗戦賠償などで不況は重く国民の肩にのしかかっていました。


そこに登場するのがアドルフヒトラーです。

持ち前の演説のうまさで、次々と国民の心をつかんでいきました。

ヒトラーのスローガンは何も難しい物ではありませんでした。

“ドイツ民族は世界一優秀で、私が総督になればあなたたちの暮らしを
きっと楽にする。”という苦しんでいる国民にはとても耳触りの良い事を、
あの大袈裟なジェスチャーを交えてうったえていました。

そしてそのプロパガンダの一つが“全ての労働者にクルマを!!”
というものでした。

ヒトラーは言いました。

“私は、大量生産され、耐久性が高く、労働者が誰でも買えるシンプルで
かつ経済的なドイツ車が見たい。いってみれば本当の意味での人々の車(
Volks Wagen)だ。”

当時車といえば一握りのお金持ちしか持てない贅沢品だったのです。

ヒトラーは高速道路(アウトバーン)建設も命令し、ドイツ国民がVolks Wagenに乗りアウトバーンを疾走するのを夢見たといわれています。


もう一つのヒトラーのスローガンはドイツの技術力を世界に知らしめる事でした。

ヒトラーは600.000マルクものお金を 国際オートレースに勝つレースカーを
創るメーカーに投資する
と申し出ました。

それを聞きつけた当時まだ無名のフェルディナンド ポルシェAuto Union
というこちらも当時まだ小さい自動車メーカーをけしかけヒトラーに
レースカー制作を申し出る為、ベルリンに向いました。


彼らがヒトラーと話した時、当時もうすでに成功し、数々の優勝記録を持っていた
ダイムラーベンツに話は決まりかけていました。

ポルシェは言いました。

“それでは両社に300.000マルクずつ投資するというのはどうか?”

ヒトラーは同意しました。


こうして造られた
Auto Union Grand Prix レースカーは、まだ誰も見た事が
無いような16シリンダーのモンスターでした。

そして世界中のオートレースで常勝したのです。


1934年5月にベルリンのホテルで行われたヒトラーとポルシェのミーティングは
歴史的な物になりました。

この時ポルシェに初めてVolks Wagen制作のオファーが出されたのです。

ヒトラーの注文は厳しい物でした。

“完成車の値段は1.000マルク以下にならなくてはいけない。”

1.000マルクというと当時中型のバイクが買える値段、とても車が買えるような
値段ではありませんでした。

悩んだあげく1934年6月、ポルシェは契約書にサインしました。


幾つかのプロトタイプの後、1938年、ビートルの原形といえる
V303
完成しました。


後にヒトラーは
Kdf(政府の労働者リクリエーションを担当する機関の名前、
Kraft durch Freudeの略。意味は“ジョイを通じて力強く”)-Wagenという
訳の分からない名前を付けますが、ちまたではそれまでどうり
Volks Wagenと呼ばれていたそうです。

完成を喜んだのもつかの間、1939年ヒトラーのポーランド侵攻によって
”世界史上最も暗い五年間” 第二次世界大戦に突入して行くのです。

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